はじめに
未だ残暑が残る9月の下旬、民間人の立ち入りが統制されているDMZに足を踏み入れ、北朝鮮との軍事境界線近くに位置する韓国・愛姑峰に訪れた。望遠鏡を通して川の向こうを観察するその一角には、昨年スターバックスが新たにオープンし、より多くの人が訪問しているようであった。スターバックスの誘致にあたり金浦市市長は「資本主義を象徴するブランドとなったスターバックスがあなたたち(北朝鮮住民)の目の前にまで迫っているというメッセージである」という狙いを語った。そこには、あらゆる“境界”の強調と間違っている北朝鮮とそれを正してあげようとする韓国の構図が見える。朝鮮半島への分断に対する認識や統一への声が弱まる現代において、私たちが意識するべき“境界”とは何なのだろうか。
私たちを取り巻く境界
そもそも“境界”とは何を意味するのであろうか。私たちはこの単語を聞いた時に、国や出生地、言語による境目をまず想像するだろう。辞書によれば、境界とは「土地のさかい、物事のさかい」であると定義している。つまり、私たちは日々の生活を送りながら、境界を自身と異なるものに対して引かれる線、自身との区別を図るための概念として理解していることが分かる。では、私たちが引いているこの線は、異なるから引いているであろうか、それとも線を引いたために異なるものとなっているのだろうか。前者であるのならば、その境界は例え同じ国家で生まれていようと、同じ教育を受けていようと、家族の間にさえ存在する線となるだろう。なぜなら、この世に自分と同じものなど存在するはずはなく、全ての人は異なる境遇、異なる思想を抱えながら生きているからである。一方、先述したスターバックスの新店舗開店に向けた金浦市長のメッセージを振り返ると、これは線を引くことによる境界の強調であり、異なる存在としての意識を高めるものであると見ることができる。同様の言語を話し、同様の文化を共有し、同様の歴史を歩んできたこれら二つの国家は人間のあらゆる欲望により異なる存在となった。愛姑峰を訪問した人々が望遠鏡を通して川岸の向こう側を見つめているその姿は、まるで動物園の動物を観覧するかのようであり、彼らをを見ながらふとなぜ対岸を望遠鏡を利用してまで見ているのだろうと不思議にさえ思った。彼らにとってその対岸は、異なるものとしての線を引くことによって自身の好奇心の対象となり、自らと異なる世界線となっているのである。
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