2025年、ピースモモは大切な仲間のミドリ、ミス、ミカ、トモコ、ミレ、ナツハを、日本と韓国をつなぎながら活動する「専門委員」という名でお迎えしました。これからThe Slashで毎月1回、専門委員の皆さんのエッセイをご紹介します。ぜひお読みください。
在日コリアンの人権運動との出会い
1985年、日本では外国人登録法の改正を求める社会運動が大きく盛り上がっていました。当時の外国人登録法では各人の登録の際に指紋押捺が必要で、常時携帯を義務付けられていた外国人登録証明書には顔写真の下に黒インクで指紋を押す欄がありました。日本国籍者にそんな義務はなく、外国人だけに課された義務でした。当時在日外国人の9割近くが植民地支配に由来する在日コリアンだったため、その制度は植民地期から続く差別の象徴ではないかと抗議の声が高まり、良心的不服従として指紋押捺を拒否する在日コリアンが現れました。一人、また一人と指紋押捺拒否者が増え、それを支持し連帯する日本人市民も多く、メディアも外国人登録法の差別性を問題視した報道をしていました。私もそんな報道を通して問題を知りました。とりわけ、指紋不押捺罪で逮捕されていく拒否者が「日本政府の弱い者いじめを見てほしい」と報道のカメラに言った姿が、衝撃的で強烈に心に残りました。私の目からは、不当で理不尽な法律に立ち向かう英雄(キング牧師のような)、強い人に見えるのに、「弱い者いじめ」とはどういう意味なのだろう? と。
翌年、大学生になった私は、同じ大学で指紋押捺拒否をしている在日コリアンの先輩と知り合い、そのつながりで在日コリアンを中心とする市民団体に出会いました。そしてともに活動するうちに気づいてハッとしたことがありました。それは、私が中学2年生の時、在日コリアンの友人が14歳の誕生日に「市役所に行かなければならないから」と学校を休んでいたことでした。友達は、一人で市役所に行き、指紋を押捺していたのです。仲が良い友達だと思っていたけれど、社会の仕組みによって分けられ、まったく違う体験をさせられていたということ。つまり差別は私の友達への気持ちや仲の良さと関係なく、社会によって分けられる、構造の問題なのだと知ったのです。
1988年8月のヒロシマで
それは複数の大学のサークル有志が集まってのスタディツアーでした。ヒロシマの反核平和運動、平和教育を学ぶことを軸に、全体で活動するプログラムが2日間、あと1日はサークルごとに独自の活動をするという日程でした。全体プログラムでは各サークルから講師希望を出し、複数の立場の異なる被爆語り部に講師を依頼していました。私たちのサークルは在日コリアンの被爆語り部に依頼し、来てくださったのが朱碩(チュ・ソク)さんでした。朱さんは弟を原爆で亡くし、ご自身も被爆しておられますが「なぜ弟は死んで自分は生き延びたか」へのこだわりとともに以下のようなお話をしてくださいました。
8月6日、広島市内の建物疎開作業への学徒動員に当たっていた弟が「頭が痛いから休もうかな」と言うのに朱さんは腹を立て「頭痛ぐらいなんだ、そんなことでは立派な皇国臣民になれないぞ!」と叱咤して半ば無理やり、家から送り出した。原爆が炸裂したとき、まだ家にいた朱さんは助かり、爆心地近くの屋外で作業をしていた弟は亡くなった(遺体も見つけられなかった)。「当時は植民地支配下で、差別も厳しかった。けど、日本人よりも立派な皇国臣民になってやろう、なんて、日本の軍国主義教育に染まっていた自分が悔しい。弟を殺したのは、立派な皇国臣民になり切って、朝鮮人であることを棄てようとしていた私だ」。その後、何日も弟を探して広島市内を歩き回ったが「そのとき足の裏から伝わった、被爆後の瓦礫の熱さ、何とも言えない匂い…人が焼ける匂いと、腐っていく匂い、そして瓦礫の匂いが混じった、あの場にしかなかった匂いを、本当は一番伝えたい。でも絵や写真、ことばで表せないことは伝えられない」
日本の植民地支配、皇民化教育が朝鮮人の少年に「日本人より立派な皇国臣民になろう」と本気で思わせ、「日本の勝利に貢献するためのご奉公(学徒動員)を休むなんて!」と言わせてしまった、そのせいで「弟を殺した」という責任を感じながら後半生を生きてこられた朱さんの語りに圧倒されました。また、後半の「熱と匂い」の話も印象的で、その「伝えきれない」ことにこそ、戦争を考えるために不可欠な、大事な要素がたくさん隠れているのではないだろうかとも考えました。お話の後、私たちのサークルは朱さんにご挨拶し、直接、感想をお伝えしました。在日コリアンの学生もいたので、朱さんは大変喜んでくださり、翌日の私たちのプログラム:渡日治療中の在韓被爆者をお見舞いしお話を聴く場に合流しましょう、と申し出てくださいました。
翌日、改めてお会いした朱さんは、在韓被爆者の方がお話しされた後に、ご自身が受けた被爆後の民族差別について私たちに話してくれました。朱さんは自身の体験もあって教育の重要さを痛感したので、朝鮮学校で教員になりました。同時に、被爆語り部の活動にも参加しようとした、その当初「被爆者として被爆体験を語ってほしい、朝鮮人差別の話は混ぜないで(話さないで)」と言われたというのです。被爆直後の診療拒否や自身が経験した進学時、就職時の差別の体験について「語るな」と言われても、被爆者への差別と民族差別が重なり合っていて分けきれない部分も多く、自分としては分けて話すのは難しい。でも民族差別の話が混ざると非難され、「朝鮮の語り部は必要ない」とまで言われたこともある、と。被爆語り部の活動グループ内でも差別があったと知り、私は何ともやるせない感情になり、猛烈な怒りも感じました。その後、朱さんは朝鮮半島に帰った被爆者に思いを馳せ、渡日治療を支援する日本人被爆者のグループと出会い、その活動に合流して語り部活動を続けます。「みなさんにはむしろ、こういうお話(民族差別の話)がしたいと思ったから」と穏やかな顔で話してくださった朱さんを、今でもよく思い出します。朱さんにとって、戦争と被爆の体験は、日本の敗戦で終わったわけではなく、その後もずっと日本社会の民族差別との「戦争」が続いていたのだなと思いました。差別と戦争が地続きの問題だと悟った出会いでした。
その後、私たちのサークルと朱さんとの交流は数年続き、行くたびに新しいエピソードも増え、その語りは深まっていきました(私は最初の2年間に関わり、3年目に後輩に引き継ぎました)。
日常にある「戦争」に向き合うために
被爆体験の語りも含め、戦争体験の語りについて、つい「語る人」の主体性の強さ、話す内容のパワーに意識が向きがちですが、実は「聴く人」によって引き出され、意味づけられていく面があり、「聴く人」が現れなければ語られずに埋もれていくのだろうな、と朱さんとの出会いを思い出すたび、考えます。それは、差別による傷つき、悲しみや怒りを「聴く人」がいなければ、差別がなかったことにされ、被害体験が埋もれていってしまうことと地続きだとも思っています。
モモのワークショップで「些細なことでも大丈夫」「慣れていなくても大丈夫」「お互いに/たくさん(話し、聴こう)」と言われるたび、それは大切なことが「語られないまま埋もれてしまわないように」という意図があるのだろうなと感じてきました。小さな気づきやことばになりきらない思いを取りこぼさず、心とからだに残していく、そして、仲間とともにそれを味わい、考え続けることこそが、日常にある「戦争」と向き合う過程ではないかと思います。

/北川知子
特定非営利活動法人とんだばやし国際交流協会理事長。富田林市は人口約10万人の大阪の地方都市で、SDGs推進自治体として「だれ一人取り残さない富田林市」を掲げており、国際交流協会もその方針に賛同・協働し、外国人市民の生活相談や多文化共生・交流事業を行っている。一方、個人としては大学の非常勤講師や人権研修講師の仕事を通して、人権教育に取り組む人を増やし、そのネットワークを広げることをミッションに活動中。
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